パレンバン落下傘部隊の奇跡
●国の為に戦った若者を顕彰しない国
「パレンバン」と聞き、「空の神兵」の大勝利を連想できる人が少なくなった。
戦争を体験した世代が減り、戦争の歴史を学んでいない世代が増えているのだから仕方ないが、情けない話である。アメリカの愚民化政策、日教組教育に起因するが、それでは日本人としては失格である。「大東亜戦争は侵略戦争だ!」と決めつけ、勇敢に戦った英雄を忘れ、歴史から葬ろうとしている。「東京裁判」も優秀な軍人を葬り、また父祖たちをも「戦争加担者」と蔑んでいる。近隣諸国には謝り、国の為に命を賭して戦った若者を顕彰しない国になっている。他国では考えられない。東南アジアの人々は、独立出来たのは、「日本」が戦ってくれたお陰だと感謝している。しかし、近隣国に詰め寄られ、自虐史観まで築いているのが、今の日本の実態である。今こそ戦前の日本人が持っていた「自信」と「誇り」を取り戻さなければならない。
平成30年8月、第18回アジア競技大会が、インドネシアで開催された。今回は「ジャカルタ」と「パレンバン」の二都市が会場に選ばれた。
パレンバンはスマトラ島の最大の都市。中央部をムシ河が流れ、古くから商都として栄え、大正時代頃から多くの日本人が住んでいた。昨今のインドネシアの経済発展は目覚ましいが、戦前までは約350年間もオランダの植民地であり、力(武器)による統治で住民は奴隷のように扱われ、搾取され続けてきた。インドネシアには12世紀頃から「ジョヨボヨ王の予言」で「我が国は白い人に征服されるが、白い乗り物に乗った黄色い人たちによって解放される。」と語り継がれていた。インドネシアの人たちは「救世主」が現れるのを待ち望みんでいた。
昭和17年2月14日の白昼、パレンバンの大空に、真っ白い落下傘の大輪の花が咲いた。伝説のとおりの、黄色い人たちが空から舞い降りたのである。
約350人の部隊が、千人を超えるオランダ軍に奇襲攻撃をかけた。住民は「神兵」として狂喜乱舞して迎えた。日本軍はオランダ軍を蹴散らし、パレンバン飛行場と2ヶ所の製油所(ロイヤルダッチ社とスタンダード社)をほぼ無傷で制圧、戦闘は約一日で終結した。
ジャワ作戦の制空権確保の為には最優先に飛行場を制圧すべきであった。制圧の翌日には早くもシンガポールから友軍機が飛来、燃料補給後には、ジャワ本島上陸を目指す大船団の掩護や、ジャワ島のオランダ軍基地への攻撃に向かったのである。
当時の航空機の移動距離では、シンガポールからジャワ本島への直接の空爆は出来ず、給油基地が必要であり、このパレンバン飛行場を前進基地として利用出来た効果は絶大であった。
ジャワ本島をたった九日間で制圧したが、この制圧の裏には、パレンバン落下傘部隊の大勝利があったからである。
●たった5名で300人と戦闘し、敵兵を撃破
特筆すべき戦闘は、12時間ほどで飛行場を確保した部隊の一小隊の奮戦である。誌面の関係上、詳しい内容は割愛するが、降下直後に集結した5名の将兵が、約30倍もの敵と遭遇、拳銃と手榴弾だけで敵を敗走せしめた。これでオランダ軍の厭戦気分が強まった事は容易に想像できる。この規模の遭遇戦が二度もあったというから驚く。結果的には、5名で300人と戦闘し、撃破したのだ。奇跡的な戦果ではあるが、オランダ軍は日本軍の強さに舌を巻いた。日本軍は型破りに強かったのだ。その小隊長は弱冠21歳の奥本 實中尉(父)であり、殊勲甲が与えられ、翌年2月には、宮中に参内し、昭和天皇から謁を賜わった。(昭和天皇実録に記載あり)これまた奇跡のような話である。
落下傘部隊による戦果は飛行場の制圧だけではない。製油所も予想以上の戦果をあげた。
陸軍はパレンバン製油所の同時攻撃を躊躇したようだが、約百名を製油所攻撃に向けた。。喉から手の出るほど欲しい石油であり、大本営の食指が動いたのも無理はない。
当時、日本の年間石油消費量は約500万トン、パレンバンでは年間600万トンの石油が確保出来、また南方地域の合計で年間約800万トンを入手したのである。
日本の消費量の1.6倍の石油を得た事で、3年以上も戦えたと言っても過言ではない。
日本軍の強さは枚挙に遑がないが、確かに勇猛果敢であった。その様は神憑っていたかも知れない。雄々しく戦った名もない若者を、後世にわたり語り継ぎ、慰霊・顕彰しなくてはならない。残念ながら戦争の歴史を語れる人が少なくなっている。正しい歴史を学び、後世に語り継ぐことは、現代を生きる我々の責務である。父祖たちの輝かしい足跡を日本人の誇りとして継承しなければいけない。
日本の正しい戦争の歴史を知り、大東亜戦争は正しかったと言える国民でなければいけない。そうすることが、命を賭して日本を護って戴いた英霊への恩返しとなるからだ。
日本人は覚醒しなければならない。
平成31年8月23日更新