「史」から~昭和天皇と終戦|新しい歴史教科書をつくる会

fc.png

HOME > 「史」から > 「史」から~昭和天皇と終戦

昭和天皇と終戦

大東亜戦争は、昭和20年8月9日深夜(10日未明)と14日の二度の聖断、すなわち昭和天皇の決断によって終結したが、その構想は、東条内閣末期より木戸幸一内大臣を中心に検討されていた。とはいえ、それが具体化するのは、戦局が極度に悪化した昭和20年に入ってからである。

昭和20年3月10日未明の東京大空襲により、東京市東部地域が焼失し、民間人の死者は約10万人に及んだ。昭和天皇は18日に被災地を視察し、関東大震災を思い起こしている。次いで4月1日、沖縄戦が始まった。7日、鈴木貫太郎内閣が成立し、外務大臣に東郷重徳が就任した。軍部に終戦を説得できる外交官として評価されたからであった。

一方、アメリカでは、沖縄戦開始直後の4月12日、フランクリン・ローズヴェルト大統領が死去し、後任にトルーマン副大統領が昇格した。5月8日、ドイツの降伏を受けてトルーマンは、「日本陸海軍の無条件降伏」を求める声明を発し、国民と指導者を分離することによって、日本に戦争責任を負わせようとした。また、国務省では、無条件降伏の条件と共に天皇の存続を明示することで、戦争の早期終結と日本による戦争責任の受け入れを実現しようとする構想が登場し、政府内で調整がなされた。特にスティムソン陸軍長官は、陸軍の被害を軽減するため、天皇の存続、ソ連の参戦、原爆の使用によって日本の早期降伏を確実に実現しようとした。結果、7月2日にトルーマンに提出されたアメリカの対日通告案は、皇室の存続を明示するものとなっていた。

その間、東郷はソ連を仲介国として構想した。ソ連以外にアメリカに影響を与えられる国はなく、ソ連の仲介に陸軍も同意したためである。六月八日の御前会議で本土決戦の方針が定められたが、沖縄陥落直前の六月二十二日、日本政府はソ連への要請を決定し、七月十日に近衛文麿元首相が派遣されることとなった。十二日、東郷はソ連に伝達すべき次のような訓令を駐ソ大使館に送った。

天皇陛下に於かせられては、今次戦争が交戦各国を通じ国民の惨禍と犠牲を日日増大せしめつつあるを御心痛あらせられ、戦争が速かに終結せられんことを念願せられ居る次第なるが、大東亜戦争に於て米英が無条件降伏に固執する限り、帝国は祖国の名誉と生存のため一切を挙げ戦ひ抜く外無く、これがため彼我交戦国民の流血を大ならしむるは誠に不本意にして、人類の幸福のためなるべく速かに平和の克服せられんことを希望せらる。

訓令は天皇の意向に基づき、日本の和平の意思、とりわけ人道的見地から早期終戦を望むことを伝えていた。昭和天皇が無条件降伏を拒否したのは、無条件降伏がアメリカの非人道的行為を追認するものとなり、降伏後のアメリカの対応に信頼を置けなかったからである。ただし、この電報はアメリカに解読されていた。

7月17日よりポツダム会談が開催された。スターリンとトルーマンの間で、日本の和平仲介についても取り上げられたが、無視することとなった。両国首脳に、前線の両軍兵士や戦争に巻き込まれる民間人への配慮は存在しなかった。24日、トルーマンはスターリンに、原爆実験の成功について示唆した。しかし、スターリンはスパイを通じて原爆開発に関する情報を事前に得ていた。26日、ポツダム宣言が発表されたが、草案に存在した皇室存続に関する規定は削除される一方で、その第13項は、無条件降伏がなければ徹底的な破壊をもたらす、という恫喝であり、これは原爆投下を正当化するためであった。さらにアメリカは、原爆実験の成功を受け、ポツダム宣言からソ連を排除した。戦後に向けた両国の主導権争いが優先されたのである。

ソ連はポツダム宣言に参加する予定であった。日本に無条件降伏を拒否させ、参戦の口実を得るためであった。しかし、日本政府はソ連の態度が不明であったため、ポツダム宣言を受諾できなかった。結果的にソ連の排除によって、ソ連に対日参戦の最後の機会が与えられたのである。

8月6日、広島に原爆が投下された。被害は甚大で、東京への情報は同日夕刻まで遅れた。8日午前、昭和天皇は拝謁した東郷外相に、有利な条件を求めずに早期の戦争終結を図るよう希望した。9日未明、ソ連が参戦し、その後、長崎に原爆が投下された。この日深夜の御前会議で、ポツダム宣言受諾が決定された。その際、昭和天皇は人道的見地からの決断であることをあらためて表明した。その後、連合国の回答をめぐって日本政府内で再度論争となったが、昭和天皇は再び受諾の意向を表明し、終戦が決定した。

昭和天皇が当初、無条件降伏を否定したのは、民間人を大量殺戮しながら日本のみに戦争責任を負わせるアメリカの姿勢に不信感をいだいたからであった。しかし、それは国民のさらなる犠牲を避けるため、放棄された。また、昭和天皇は東郷外相と意見を交わしながら、東郷に外交と軍部への対応を委ね、衆議が聖断を求める瞬間まで自制していた。聖断は独断ではなかった。

詳論の余裕はないが、一般に天皇は国務との関わりにおいて、大臣など担当部局の責任者より政務の方針について報告を受け、疑義を質した後、裁可を下し、担当機関にその実施を委任した。天皇と国家機関のいずれかが単独で政策を決定することはなく、その中での天皇の責務とは、国務に包括的に関わり、国家、国民の現状を認識しながら神事、祭事を行い、国家、国民の安寧、発展を祈るという皇祖皇宗より引き継いだ職務を次代に伝えていくことであった。こうした天皇の責任、負担の大きさから、近代では天皇と政府の調整を補佐する、元老や内大臣といった役職も発達した。

大東亜戦争の開戦と終戦の過程にもこれらの原理は貫徹されており、個々の政策立案、遂行の責任は政府が負う一方で、昭和天皇は皇祖皇宗と国民に対する責任を痛感していた。日本近代史、とりわけ支那事変、大東亜戦争や昭和天皇に関しては、信頼に堪えない文献が少なくない。「侵略戦争」や「戦争責任」などに固執するイデオロギーがもたらした弊害である。


平成31年5月31日更新



IMG_0338.JPG


宮田 昌明(みやた まさあき)
里見日本文化学研究所客員研究員