「史」から~朝鮮人戦時動員の実態|新しい歴史教科書をつくる会

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朝鮮人戦時動員の実態

朝鮮人の戦時動員に関する私の研究成果を紹介する。


①国家総動員法にもとづき立てられた「朝鮮人内地移送計画」は、ほっておいても巨大な人の流れが朝鮮から内地に向かう等状況の中、戦争遂行に必要な産業に朝鮮の労働力を効率よく移送しようとする政策だった。

②前期、1939年から41年までの募集の時期は、動員渡航者は14万だったが、個別渡航者が44万いた。つまり、計画外に約3倍が勝手に渡航し、動員計画は失敗した。

③後期、42年から45年までの官斡旋と徴用の時期は、個別渡航者はほとんどなくなったが、動員渡航者52万の37%にあたる22万が動員現場から逃亡して動員計画とは別の職場で働いていた。やはり計画は順調には進まなかった。

④朝鮮の労働力を戦争遂行に必要な産業に効率よく移送しようとする戦時動員計画は、計画とは関係なく自分たちが望む職場で働きたいという多くの朝鮮人労働者のため成功しなかった。これが実態だ。

⑤平和な農村からいやがる青年を無理やり連れて行って、奴隷のように酷使したという「強制連行」イメージは二重の意味で事実ではない。第一に朝鮮人労働者は内地で働きたがっていた。無理やり連行したのではない。第二に、彼らの多くは日本政府の戦争遂行のための統制に従わず勝手に就労した。

⑥事実に反する「強制連行」「奴隷労働」プロパガンダは1970年代以降、まず日本で作られ、それが韓国にも広がった。


戦時動員は大きく2つの時期に分けられる。

1938年国家総動員法が公布され、内地では1939年から国民徴用令による動員が始まったが、朝鮮では徴用令は発動されず、1939年9月から1942年1月までは「募集」形式で動員が行われた。

戦争遂行に必要な石炭、鉱山などの事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を得て、総督府の指定する地域で労働者を募集した。募集された労働者は、雇用主またはその代理者に引率されて集団的に渡航就労した。それによって、労働者は個別に渡航証明を取ることや、出発港で個別に渡航証明の検査を受けることがなくなり、個別渡航の困難さが大幅に解消した。一種の集団就職だった。

この募集の期間である1939年から1941年までに内地の朝鮮人人口は67万人増加した。そのうち、自然増(出生数マイナス死亡数)は8万人だから、朝鮮からの移住による増加分(移住数マイナス帰国数)は59万人だ。そのうち、募集による移住数は15万人(厚生省統計)だから、残り44万人が動員計画の外で個別に内地に渡航したことになる。

つまり、1939年から1941年の前期には、動員計画はほぼ失敗した。巨大な朝鮮から内地への出稼ぎの流れを戦争遂行のために統制するという動員計画の目的は達成できず、無秩序な内地への渡航が常態化した。動員数の3倍の労働者が職を求めて個別に内地に渡航したからだ。そのうちには正規の渡航証明を持たない不正渡航者も多数含まれていた。

動員の後期にあたる1942年から終戦までは、動員計画の外での個別渡航はほぼ姿を消した。前期の失敗をふまえて、戦時動員以外の職場に巨大な労働力が流れ込む状況を変えようと1942年2月から、総督府の行政機関が前面出でる「官斡旋」方式の動員が開始されたからだ。

炭鉱や鉱山に加えて土建業、軍需工場などの事業主が総督府に必要な人員を申請し、総督府が道(日本の都道府県に相当)に、道はその下の行政単位である郡、面に割り当てを決めて動員を行った。

その結果、1942年から1945年終戦までを見ると、動員達成率は80%まで上がった。また、同時期の内地朝鮮人人口の増加は53万7千人だったが、戦時動員数(厚生省統計)はその98%におよぶ52万人だった。

この期間も、実は計画通りには進んでいなかった。官斡旋で就労した者の多くが契約期間中に逃走していたからだ。1945年3月基準で動員労働者のうち逃亡者が37%、22万人にものぼっている。

逃亡した労働者は朝鮮には帰らず、朝鮮人の親方の下で工事現場等の日雇い労働者になっていた。それを「自由労働者」と呼んでいた。また、2年間の契約が終了した労働者の多くも、帰国せずかつ動員現場での再契約を拒否して「自由労働者」となっていた。

また、渡航の手段として官斡旋を利用して、内地に着いたら隙を見て逃亡しようと考えている者が60%もいたという調査結果さえ残っている(『炭鉱における半島人の労務者』労働科学研究所1943年)。

つまり、官斡旋と徴用によるかなり強い強制力のある動員が実施されたこの時期でさえ、渡航後4割が逃亡したため、巨大な出稼ぎ労働者の流れを炭鉱などに送り込もうとした動員計画はうまく進まなかった。

一方、平和な農村からいやがる青年を無理やり連れて行って、奴隷のように酷使したという「強制連行」イメージは11970年代以降、まず日本で作られ、それが韓国にも広がったもので、以上のような実態とは大きくかけ離れていた。



平成30年9月18日更新



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西岡 力(にしおか つとむ)
モラロジー研究所教授・歴史研究室長