敗戦復興未だ成らず~昭和天皇と大化の改新~
平成19年に改正祝日法が施行されて「昭和の日」が制定されて以来、今年で10年目を迎える。一口に「昭和」といっても、戦前の大不況とモダニズムの時代、満洲事変から敗戦に至るまでの戦時下の時代、戦後の復興期から高度成長の時代、さらにはバブル景気前夜の平成初頭まで続いた高度消費社会の時代も含めれば、その様相は大きく異なってくる。
この「戦前/戦後」の連続性を辛うじて支えていたものこそ、昭和天皇の存在にほかならない。
実は日本人の敗戦体験は、大東亜戦争が初めてではない。天智天皇の称制時代の663年、日本が百済救援のために唐・新羅軍と戦って敗れた白村江の戦いがある。敗戦から一年後の首相、閣僚を召された御茶会で、昭和天皇はこの遙か1300年前の白村江の戦いを引き合いに出され、「天智天皇がおとりになった国内整備の経論を、文化国家建設の方策として偲びたい」と述べられている。
国史上、白村江の戦といえば、今では歴史教科書でもお馴染みだが、かつての国定教科書では紹介されなかった時代もあった。「神州不滅」という理念と敗戦という結果に、齟齬が生じるからだろう。同様に、その後の壬申の乱についても、皇位継承の争いということでタブー視されたのか、教えられることはなかった。
しかしながら、昭和天皇はそれらの事実を、東宮御用掛も務めた歴史学者・白鳥庫吉から、その『国史』を通じて授けられていた。
「神州不滅」ということは、決して我が国が何の災難もなく、平穏無事で続いてきたということではない。遡れば白村江の時代から蒙古襲来、先の大戦のみならず、様々な内乱、自然災害を経て、日本という国は今日まで続いてきた。その中でも、優れた先人たちが、そうした国難を乗り越えるべく、奮励努力されてきたのだ。
昭和21年11月9日、元滋賀県知事で侍従次長を務めた稲田周一が、昭和天皇御代参により近江神宮に参拝した際、当時の平田貫一宮司に陛下の次の御言葉をお伝へした。
「この度の大東亜戦争はまことに遺憾の極みであるが、千三百年前の天智天皇の御時、唐・新羅の軍と白村江に戦つて大敗した歴史がある。天智天皇は直ちに兵を徹せられ、国内諸政の一新を企てられ、文化を振興、国力の充実を図られた事を模範として、諸政一新、文化経済を盛んにして永い将来に対処したいと念願してゐるから、一同も此の旨を体して失望することなく勇気を奮ひ越して大いに発奮努力して欲しい。」
(近江神宮社務所「近江神宮のご案内」)
この御言葉は、実にその年元旦に、玉音を以て発表された「新日本建設ニ関スル詔書」の内容とも、相通じるものである。
さらに同じ頃、『入江相政日記』には、「朝鮮半島に於ける敗戦の後国内体制整備の為天智天皇は大化の改新を断行され、その際、思ひ切つた唐制の採用があつた」として、昭和天皇が大戦後の国内整備を、戦勝国となった米国の最先端の文明を取り入れることで、再建しようとされていたことが伺える。
今年で1350年を迎える近江遷都も、そうした流れで実施されたものである。近江神宮は、紀元2600年と呼ばれた昭和15年に創建された比較的新しい神社だが、5年後の昭和20年には大化改新1300年祭の催しが施行されている。そして8月、図らずも我が国が白村江に次ぐ未曾有の敗戦に遭遇することで、「敗戦復興」を象徴する神社となった。
その辺りの経緯については、平成29年2月に展転社から刊行した拙著『敗戦復興の千年史 天智天皇と昭和天皇』を参照されたい。
昭和天皇が天智天皇の大化改新の精神を回顧され、また百済救援の役での敗戦復興という故事を踏まえられたからこそ、我が国は世界規模での大戦での敗北から立ち直ることができたのである。
むろん祖国再生にあたって、戦勝国からの文化を取り入れることについては賛否もあろう。戦後70年を経て、そのことによる弊害は今になって生じている。残念ながら表面的な「復興」が、敗戦直後の日本人の苦い認識を忘却させてしまった側面は否めない。
終戦直後、米内光政は、昭和天皇から「日本再建には300年かかるであろう」との御言葉を賜っている。
「300年」とは如何なる根拠に基づくものなのか。生物学者でもあられた昭和天皇が、単なる思いつきでこの様な御発言をされるはずはない。
詳しくは本書に譲るとして、「復興までに300年かかる」と仰せられた先帝の歴史認識の重さを、今こそ再び噛みしめる時である。
『敗戦復興の千年史』山本直人(著)
平成30年3月2日更新