「史」から~カルタゴはなぜ滅びたか|新しい歴史教科書をつくる会

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カルタゴはなぜ滅びたか

憲法改正に反対して、絶対的平和主義を叫ぶ人々がいる。耳に快いがただの願望であり、現実的効力は何もない。私は「絶対的平和主義」という言葉を聞くたびに古代都市カルタゴの運命を想起する。歴史は過去に起こったことであり、未来に起こることでもあるからだ。

フェニキア人が北アフリカに建てたカルタゴは、新興ローマと三度戦って三度敗れた。ポエニ戦争である。とりわけ紀元前202年の第二次ポエニ戦争は、英雄ハンニバルひきいるカルタゴ軍が致命的な敗北を喫している。

勝利したローマはカルタゴに過酷な要求を突きつけた。領土の没収、武装解除、自衛を含む対外戦争の禁止、銀1万タラントを50年に分けて支払う賠償金――。500隻の軍艦が、市民の面前で焼き払われた。

1945年の日本の敗戦に瓜二つである。軍隊・交戦権を奪われ、神道・神話教育・武道まで禁止された。私は教科書に墨を塗った世代である。

カルタゴは絶対的平和主義を掲げ、貿易に専念して経済大国になった。戦後日本も同じ道を歩いてきた。わずか7年で戦前レベルに回復し、23年目に自由主義経済圏で第2位の経済大国になった。

経済大国になったカルタゴだが、つねにローマの監視下にあった。

ローマの大政治家、マルクス・ポルキウス・カトー(前234~前149)は間もなく賠償金を払い終わるカルタゴを警戒し、元老院で演説するたびにカルタゴ産のイチジクをかざして叫んだ。

「わがローマから海路3日のところにこのような見事なイチジクを産する国がある。この財力によって兵を備え、わがローマの強敵になるであろう。カルタゴは滅びねばならぬ」

カルタゴは穏忍自重し、宗主国ローマが外征するたびに小麦など食糧を大量に提供して経済協力をしてきた。

あるとき、カルタゴの使者がローマ元老院で「わがカルタゴ人はローマ人とともに3人の王と戦った。マケドニアのフィリップス王、シリアのアンティコス王、マケドニアのペルセウス王……」と演説し、たちまち嘲笑を浴びた。「血も流さずに何を言うか!」

1995年の湾岸戦争、日本は多国籍軍の一員として1兆3000億円の資金援助をしたが、感謝も尊敬もされなかった。約2200年の時空を越えて、カルタゴのジレンマは日本のジレンマと出会う。

前150年、隣国ヌミディアが侵略し、カルタゴ市民は反撃した。これを条約違反と咎めるローマ軍が大挙して侵攻し、第三次ポエニ戦争が起きた。非武装だったカルタゴは滅亡し、街は17日間も燃えつづけた。貿易によって豊かになった市民は、パレスティナの死海から採られた高価なタールを屋根にふんだんに塗っていたからだ。

絶対的平和主義は美しいイデアだが、無責任な感傷にすぎない。そのイデアを掲げて発布されたのが日本国憲法である。だが、今なお多くの国民は歴史に学ぶことなく、それを「平和憲法」と呼び、うっとりと陶酔している。

平成25年11月22日更新



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山本 茂(やまもと しげる)
新しい歴史教科書をつくる会 理事